プロ格闘家・山本“KID”徳郁の参戦で注目を集めたレスリング全日本選手権。派手な人気者見たさにたくさんのファンが会場を訪れたが、目を引きつけたのはむしろ、引き立て役に回りながらも堂々たる戦いを繰り広げた実力者たちの姿だった。  フリースタイル60キロ級2回戦。強烈な投げで山本のひじを脱臼(だっきゅう)させ主役の座から引きずり下ろした井上謙二にとって、この試合は、故障からの復帰戦だった。アテネ五輪で銅メダルを獲得したが、その直後に肩の軟骨がはがれて固まりになり、関節の痛みに苦しんだ。この対戦で見せた投げは、持病を再発させかねない捨て身の賭けにも見えた。  準優勝したこの井上のほかにも、グレコローマン66キロ級優勝の飯室雅規ら、自衛隊員の決勝進出者は計10人。いずれも「正々堂々」「正攻法」の伝統を受け継いだ好選手だった。  実は、井上の戦いぶりには伏線があった。山本の1回戦の相手はやはり自衛隊員の土田章博。会場で40人ほどの同僚から大声援を受けた土田は、第1ピリオド開始早々から攻勢に出た。だが、審判は山本への得点をカウント。この微妙な判定には、会場のあちこちからブーイングが起きたほどだった。結局、土田は判定で敗退してしまう。  驚かされたのは「土田応援団」の態度だ。終始一貫、ブーイングやヤジはなし。敗れた土田も試合後、山本の戦いぶりをたたえた。  自衛隊の和久井始コーチが言った。「我々の仲間は、世界で平和活動をしています。武器を持った相手から攻撃を受けても撃てない。そんな難しい戦いを強いられている仲間に誇りと感動を与えるような戦いをしなければならんのです」。井上は試合後、「山本選手のお陰でメディアに取り上げられ、多くの仲間が見てくれたと思う。自衛官の一人としてマット上で頑張る自分の姿を励みにしてもらえれば幸せです」と話した。  不満や批判の言葉をのみ込む強い自制心と、仲間たちの思いを力に変えた井上の気迫。日の丸を支える人間の誇りを示す、見事な戦いぶりだった。(下山田郁夫)。