◆60キロ“超遅球”で翻弄  ▽2回戦 電電関東 100 000 000―1 大昭和  000 100 10X―2  ▽準々決勝 松下電器 000 000 001―1 大昭和  050 300 00X―8  1970年(昭和45年)の都市対抗野球大会の出場を決めた大昭和製紙(現日本製紙)野球部は7月下旬、後楽園球場に向け出発した。  一度は地区予選敗退を覚悟して合宿を解散しながら、三つどもえの代表決定戦を勝ち抜いてつかんだ切符だけに、野球部長の斉藤公紀(65)は「暴れん坊の名を全国にとどろかせてやる」とひそかに意気込んでいた。  この年、早稲田大から投手安田猛(59)、静岡高出身で攻走守を備えた内野手小田義人の2選手、近畿大から「ポパイ」の愛称で親しまれた強打者小松健二らが加入し、周囲の期待も大きかった。  その後、プロでも活躍する安田に最初に目を付けたのは、野球部創設者の社長斉藤了英(故人)だった。早大の軽井沢合宿で見た安田の投球にほれ込み、獲得を指示。当時、大昭和OBの石井藤吉郎(故人)が早大監督をしていた関係で、入部が決まった。  早大時代、安田は4勝しかしておらず、評価はあまり高くなかった。小田や小松に支払われた「野球手当」が月1万円なのに対し、安田は8000円。2000円の差が「刺激になった」と安田は振り返る。  入部後、バント練習で左中指に球が当たり、4針を縫うけがをした。間近に迫っていた沖縄合宿には、故障者は連れていかない決まりだったが、監督の野村徹は、他の部員の了解を得て、安田の参加を認めた。だが、ボールを握ることができず、ひたすら走るしかなかった。  合宿から帰っても、沼津球場の両翼のポールの間を毎日60〜80往復走った。何往復したか分からなくなるので、あらかじめ小石をフェンスの上に並べておき、1往復するごとに1個落としていった。  「小石が恨めしかった」と安田は言うが、強い下半身と基礎体力は、この時の走り込みで身についた。        ◎  ◎  都市対抗ではくじ運に恵まれ、31チームの中で唯一、7月28日の2回戦からの登場となった。  相手は前年優勝の電電関東(千葉)。大昭和は一回に1点先制され、前年の橋戸賞投手でもある電電関東のエース若宮秀雄の落ちる球にタイミングが合わず、三回終了まで1人の走者も出せなかった。  大昭和は四回、三塁打と内野ゴロで同点。七回には、小松のヒットに相手の連続失策などが絡み、勝ち越しの2点目を挙げた。  結局、大昭和は2安打2得点に抑えられながらも、三回から登板した安田が、電電関東打線を2安打に抑えて追加点を許さず、辛勝した。  大会前、安田は捕手の長倉春生からスローボールを伝授されていた。長倉から「まだ速い、もっと遅く」と指示され、半信半疑のまま、大会直前に60キロほどの超スローボールを投げられるようになっていた。  都市対抗では、変化球で追い込んでから、この球が決め球になった。「狙って併殺が取れた。『どうなっているのか』と、自分でも不思議だった」という。  安田の速球は133、4キロが限度だったが、スローボール後に投げると効果抜群。ヤクルト入団後、この投球で巨人の王貞治らを翻弄(ほんろう)した。  安田が引退する時、王は「泳がされた投手はたくさんいたが、(安田は)つまらされて打ち取られた数少ない投手。ベンチで見るとセ・リーグで一番遅いが、打席では一番速かった」と語ったという。        ◎  ◎  30日の準々決勝の相手は松下電器(大阪)。大昭和は二回裏、二死三塁から長倉の右前打で1点先制。続く安田は2―1から、ショート・バウンドのカーブを空振りした。  捕手は落球したが、安田は「三振かな」と思いながら、飛ばしたバットを拾おうとマウンド方向に歩き出した。  松下電器ナインはベンチに引き上げようとし、大昭和ナインもグローブを手に守備位置に向かおうとしていた。  その時だった。次打者の山田克己が「振り逃げ、走れ」と耳打ちした。安田は大きくカーブして無人の一塁を全力で駆け抜けた。判定はセーフ。長倉も二塁へ進んだ。  松下電器が「進塁権を放棄したからアウト」と抗議し、試合は11分間中断したが、主審の判定は覆らなかった。  二死一、二塁から試合が再開すると、山田は三塁線を破る二塁打。長倉がかえり、2点目が入った。松下電器はリリーフを送ったが、大昭和は連続安打で、この回5点を挙げて序盤で試合を決めた。  ベスト4進出。黒獅子旗までは、あと2勝しなければならない。(敬称略)  写真=準々決勝の4回裏、大昭和は小田の左前打で二塁走者の小松がかえり、だめ押しの8点目を挙げる  写真=安田猛さん